タモリさんについて調べました。
タモリ(1945年〈昭和20年〉8月22日 - )は、日本の男性お笑いタレント、漫談家、司会者。本名は森田 一義(もりた かずよし)。福岡県福岡市南区の出身。
所属する芸能事務所は田辺エージェンシー。ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑いビッグ3の一角を担う。
タモリ(森田一義) | |
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本名 | 森田 一義 (もりた かずよし) |
ニックネーム | タモリさん タモさん タモちゃん |
生年月日 | 1945年8月22日(73歳) |
出身地 | 日本 福岡県福岡市(1972年発足の南区相当地域) |
血液型 | O型 |
身長 | 161cm |
言語 | 日本語 |
方言 | 共通語 博多弁 |
最終学歴 | 福岡県立筑紫丘高等学校卒業 早稲田大学第二文学部西洋哲学専修除籍 |
師匠 | 赤塚不二夫 |
芸風 | 漫談 物真似(形態模写) など |
事務所 | オフィス・ゴスミダ→フリーランス→田辺エージェンシー |
活動時期 | 1975年 – |
同期 | ザ・ハンダース(現在は解散) 嘉門タツオ |
現在の代表番組 | レギュラー番組 ミュージックステーション(金) タモリ倶楽部(金深夜) ブラタモリ(土) スペシャル番組 世にも奇妙な物語 春・秋の特別編 ミュージックステーションスーパーライブ ミュージックステーションスペシャル ウルトラFES タモリのオールナイトニッポンGOLD Song&Bossスペシャル NHKスペシャル 人体 神秘の巨大ネットワーク |
過去の代表番組 | テレビ番組 笑っていいとも! 笑っていいとも!増刊号 今夜は最高! タモリのボキャブラ天国 ジャングルTV 〜タモリの法則〜 タモリの音楽は世界だ! トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 エチカの鏡〜ココロにキクTV〜 ヨルタモリ タモリと鶴瓶 他多数 ラジオ番組 タモリのオールナイトニッポン タモリの週刊ダイナマイク ブリタモリ大百科事典 だんとつタモリ おもしろ大放送! タモリのヨッ!お疲れさん 他多数 |
作品 | CD 「タモリ」 「タモリ2」 「タモリ3 – 戦後日本歌謡史 -」 「ラジカル・ヒステリー・ツアー」 「タモリのワーク・ソング」 「狂い咲きフライデイ・ナイト」 他多数 著書 「タモリのおじさんは怒ってるんだぞ!」 「タモリのTOKYO坂道美学入門」 他多数 |
他の活動 | 日本坂道学会(副会長)
日本変態協会 (会長) |
配偶者 | 既婚 |
親族 | 伊佐山ひろ子(遠戚) |
公式サイト | TANABE AGENCY.Co.Ltd. |
受賞歴 | |
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略歴
生い立ち
太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市、現在の南区に生まれる。乳児時代は「赤ちゃんコンテスト」で優勝した経験を持つ。後にタモリ本人が2018年5月25日放送の「ブラタモリ」の番組内で語ったところによると、本名の「一義」は、祖父が尊敬していたという政治家・田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたものだという。
本人曰く、幼少時代より大人びており、「偽善」という言葉を知っていたと語り、幼稚園入園時期が迫り、園を見に行ったおり「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転させてお遊戯している園児達を見て、自分には出来ないと入園拒否。小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。また「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と、冗談めかして語ってもいる。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を会長と副会長の2名で設立している。
少年時代
小学校3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2ヶ月休校して治療したものの、視力は戻らなかった。
小学校5年生の頃、予餞会で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。しかし後に脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。ラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。
小学生の頃、当時としては珍しい考えの祖母が「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言うときに困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことを「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。そのため、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作る際には、一人で大体の料理を作ったり、出汁の取り方まで全部覚えていたと語っている。
中学時代には、近所にあった平尾バプテスト教会に通ったという。ただし、キリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の身振り手振りや喋りが面白いからという理由であり、この経験は、後の年末年始特別番組『笑っていいとも!特大号』(フジテレビ系列)、オープニング時の「タモリ神父の説教」に活かされている。なお、このものまねにはモデルが存在し(当教会の宣教師、R.H.カルペッパー)、当教会関係者から見ても「確かによく似ている」そうである。
船が好きで、良く地元の港に行って船をずっと見ていた。そこで、どこの船なのかを全部知っていたとも話している。福岡市立高宮中学校3年間は丸刈り頭であった。部活動は、主に剣道と陸上競技を行っており、陸上部で短距離200mを走っていた。
学生時代
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学。高校時代は、剣道部と吹奏楽部を両立してトランペット兼司会を担当していた。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場[注 1]も通い、二段を取得した。ファンであった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。
高校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入れに篭り、中国や韓国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが「藤村有弘以来」と言われた、「6か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んで極度の瞑想に近い経験をしたこともある。
無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1年間の浪人生活を送ったのちに、1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。
早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。しかし「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でクビとなり、代わりにマネージャー兼司会を担当することになった。この時期に付けられたニックネームが、森田をバンドマン読みとした「タモリ」である。
その後、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、司会の大橋巨泉からその才能を認められている。
大学2年次5月の連休に、友人2人と旅行を計画し、学費用の仕送りを旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料の支払いが滞ることとなり、3年次に学費未納のため抹籍処分となった。
福岡時代
大学を抹籍処分になった後もモダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行され、かなりの収入を得ていたが、間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命で3年近く保険外交員として勤める。この時期に、同僚で2歳年上の一般女性と結婚。その後、旅行会社に転職し、系列のボウリング場(大分県日田市)に転属、支配人となる。
1972年、渡辺貞夫の福岡でのコンサートのスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、その友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間ギリギリまで飲みながら話し込んでいた。いざ帰ろうと部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、通りがかり様に半開きになっていたドアから中を覗いた。室内では、ナベサダのコンサートに同行していた、山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が歌舞伎の踊り、狂言、虚無僧ごっこなど乱痴気騒ぎをしていた。そこにタモリは乱入する。中村誠一が被っていたゴミ箱を取り上げるとそれを鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。山下トリオの面々は「誰だこいつ?」と動揺するが、中村は機転を利かせてその非礼をデタラメ朝鮮語でなじった。しかし、それより上手なデタラメ朝鮮語で切り返し、その後、中村とのインチキ外国語の応酬に発展。表情を付けてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には、山下は呼吸困難になるほど笑ったという。始発が出る時間まで共に騒ぎ、「モリタです」とだけ名乗って帰宅した。
「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下は、博多のジャズバーに「モリタ」という名前の男は居ないかと片っ端から問い合わせたという。その後、とあるジャズバーから「喫茶店の変人マスターでは」という情報が入り、再会を果たすことになる。情報通り、この時期、転職して喫茶店のマスターとなっており、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。その喫茶店はライブ喫茶照和の近辺にあり武田鉄矢もアマチュア時代に訪れたことがあるという。再会後は、山下トリオが九州に行く際に共に遊ぶ仲間となり、山下のエッセイでしばしば取り上げられる、知る人ぞ知る存在となる。
1975年春には、山下の行きつけであった、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いというのなら一度見てみたい」と上京させる機運が高まり、バーの常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、同会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。福岡からの上京時に乗ったのは岡山-博多間が開業したての山陽新幹線であった。開かれた独演会では「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆、唐十郎ら臨席した全員を感動させた。
赤塚不二夫との出会い
福岡で生活しつつ、カンパの資金により月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を送っていたが、同年夏、面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫が訪れる。即興芸に心酔した赤塚は、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組へ出演させることを決意。放送までまだ日数があったため、福岡に帰ることを望んだタモリであったが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、常人ではありえない発想で引き止める。それは、当時(1975年)、赤塚が住んでいた4LDKのマンション[注 2]や、保有するベンツのスポーツタイプなど、それら全てを自由に使っていいから東京に残ってくれとの懇願であった。タモリはこれを了承。結果、赤塚宅での居候生活が始まり(タモリや赤塚らは「居候」と言っているが、実質的には「生活スペースの交換」(赤塚は福岡に住んだわけではないのでこの言葉も当てはまらない))、その上、赤塚から月に20〜30万円の小遣いが渡され、「ジャックの豆の木」を始めとした飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎする日々を送ることとなる。生活スペースを譲ることになった赤塚は、仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝場所を確保するなど、侘しい生活を送った。赤塚が着る服がなくなりやむなく「赤塚宅」に一時帰宅した際に、探していた服をタモリが着ていたという笑い話がある。タモリが考える居候の秘訣は「卑屈になるな」。
同時に「ジャックの豆の木」のママであるA子(A子は匿名ではなく、通称)を社長、山下洋輔を常務とするマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」(「ゴスミダ」はタモリによる韓国語モノマネの1フレーズ)が設立され、所属タレントとなる。同事務所のマネジメントにより、バラエティ番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日放送、NET)で、テレビ番組初出演を果たす。インチキ牧師などのパフォーマンスを次々と披露していき、たまたま番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰?すごいじゃない」と、その夜のうちに問い合わせがあり、次いで『13時ショー』(「徹子の部屋」の前身番組、NETテレビ)の素人芸能コーナー[注 3]に、赤塚とともに2回目のテレビ番組出演をした。次いで、京都大学の学園祭に、筒井康隆・高信太郎・山下洋輔とともに出演。野坂昭如・日高敏隆などの文化人との出会いを果たすが、このときに学園祭主催側と発生した金銭的なトラブルを機に「オフィス・ゴスミダ」は解散した。
赤塚のテレビ特別番組に出演させるという当初の目的を達成した赤塚らは、次の目的を「タモリを芸能界入りさせる」に設定し、赤塚宅での居候生活は継続され、結局、デビュー直前までの9ヶ月近くに及び、途中には妻も呼び寄せている。
赤塚らと飲み屋で騒ぐ素人芸人時代に、放送作家の高平哲郎らとも知り合うなど、芸能界的な人脈も増えていく。売り出すための算段などが練られて、「戦後最大の素人芸人」というキャッチフレーズが作られたり、アイパッチ姿(浅井慎平がサイレント映画の大スタールドルフ・バレンチノ風にスタイリングしたもの)にされるなど徐々にキャラクターが作り込まれていった。
特異な芸風から所属事務所が中々決まらなかったが、高平哲郎の紹介を受けて大手芸能プロダクション田辺エージェンシーと契約を結ぶ。大恩人ともいえる社長の田邊昭知とは、後に親友になっている。
なお、芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという。
誰の弟子にもならない
組織には属さない
頭をなるべくさげずにカネをもうける
色紙にサインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
芸能界入り
1976年4月、東京12チャンネルの深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で正式に芸能界デビューを果たす。その後、バラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)にもレギュラー出演が決まるが、この時期は「タモリ専用のコーナー」で密室芸をするという形が取られていた。30歳で芸能界デビューを果たしたため、ビートたけし、笑福亭鶴瓶、明石家さんまなどは年齢が下だが先輩になる。
当時の芸は、イグアナのような体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語ハナモゲラなど、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。このことに対して本人は、キワモノとしての当時を「江頭2:50が出てきた様なもの」と評している。深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でラジオパーソナリティーとして、徐々にマニアックな層からの支持を集めていく。
また、番組以外にも活動の場を拡大し続ける。山下洋輔主催の全日本冷し中華愛好会に参加。
1977年には、赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、アルフィー、劇団東京ヴォードヴィルショー(一部メンバー)も参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。
なお、同年10月29日、面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。
1979年には、映画『下落合焼とりムービー』に出演。また、1981年には、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行するなどしていた。
1980年からは、芸能生活5年目のキャリアで、お笑いオーディション番組「お笑いスター誕生!!」の審査員を桂米丸(審査委員長)、赤塚不二夫、京唄子、鳳啓助らと行っていた。また、オーディションに来ていたとんねるずに対して、タモリ、赤塚以外の審査員らにはとんねるずの芸は不評であったが、何故か2人のみが「何か良いんじゃないか」と高評価であったと後年とんねるずは語り、それ以前から尊敬していたがさらに崇拝度合いが増したと語った。
1980年代
1980年代に入ってからは、密室芸の披露の場を減らし、『ばらえてい テレビファソラシド』[注 4](NHK)、深夜バラエティ番組『今夜は最高!』(日本テレビ系列)などで、知性的な部分を前面に打ち出すようになり、ファン層を拡大していく。ただし、当時は下ネタ発言が多く、夜の番組の芸人というイメージが強かった。
その一方で1980年10月からニッポン放送において、夕刻のナイターオフシーズン放送として主婦向けトークバラエティー「だんとつタモリ おもしろ大放送!」がスタート。主婦向けに夜の生活秘話などのきわどいトークで人気を集めるようになった。この番組がきっかけになり、1982年、当時フジテレビのプロデューサー・横澤彪が「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。『森田一義アワー 笑っていいとも!』と『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ系列)は開始当初こそ低迷したものの、間もなく人気となり、2014年3月31日の放送終了まで31年半続く長寿番組となった。
また、この時期、深夜番組向けであるタモリの芸風を崩さないという目的で深夜バラエティ番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)も放送開始、これもまた、30年以上続く人気番組となっている。
『いいとも!』で司会術を磨き、1983年には『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK総合テレビジョン)の総合司会を務めることになる。NHKアナウンサー以外が、「NHK紅白歌合戦」の総合司会を務めるのは、史上初という異例の起用である。また、1987年4月3日からは音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)で2代目メイン司会(初代は関口宏)となり、以降、30年以上続くこととなる。
この時期のメインMCを務めた主な番組としては、上記の番組以外にも『ウオッチング』『驚異の小宇宙・人体』(共にNHK)を始め、『タモリの突撃ナマ放送』『タモリの歌謡スター笑』(いずれも東京12チャンネル時代)、『FNS27時間テレビ』第1回から第3回まで総合司会を務めた『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』(1987年 – 1990年、1987年から1989年まで)などがある。
1990年代
1990年代以降は、趣味や知識(本人曰く「広く浅く」)を前面に打ち出すようになり、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)の他にも、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)、『タモリのボキャブラ天国』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『ブラタモリ』(NHK)など続々とレギュラーが増えた。
また、テレビドラマにも積極的に出演するようになり、俳優として活動の場が増えていくことになる。
1990年代半ばには、女子高校生の間で人気が出るなどし、老若男女問わず幅広い層からの人気を得るようになる。
2000年代
2000年某日、銀座近辺の居酒屋において、坂道について友人と熱く語る講談社顧問山野勝に偶然会い、意気投合。二人で日本坂道学会を設立、山野が会長、タモリが副会長とした。
2001年11月5日、友人とゴルフ場でプレイ中、友人の打ったゴルフボールが当たり左こめかみ付近を負傷。15日まで検査入院。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』を欠席。『いいとも』は各曜日レギュラーが、『ミュージックステーション』は武内絵美アナウンサーと当日ゲストだったKinKi Kidsが司会代行を務めた。これがきっかけでゴルフを辞めることになった。
2002年4月5日、『笑っていいとも!』が放送5000回を達成。「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録された。
2002年4月~翌年3月、「TVガイド」創刊40周年のCMに出演。中国・フランス・ドイツ語バージョンと韓国・ロシア・イタリア語バージョンが作られた。
2002年5月、『タモリ倶楽部』内企画「プロジェクトSEX 性の挑戦者たち~シリコンの女神を創った男達」が平成13年度 第39回ギャラクシー賞奨励賞を受賞。
2002年8月、23年間マネージャーを務めた前田猛が急性くも膜下出血のため死去。田邊昭知と共に葬儀委員長を務めた。
2003年1月15日、『笑っていいとも!』のギネスブック登録を祝し、当時の首相・小泉純一郎が電話出演。「5000回なんて私にはとても無理。(総理の任期は)500日くらいかな?」と笑わせた。最後は「私、官邸に行ってもいいんですか?」というタモリに、小泉は「いいとも!」と返した。
2003年6月27日、『ミュージックステーション』でロシアの女性デュオt.A.T.u.がオープニングに登場したものの、歌う順番になって、楽屋から出てこなくなるハプニングが発生。タモリは「t.A.T.u.が出たくねぇ、ということです。控室から出てこないということです」と楽しそうに事情を説明。最終的にドタキャンする形となり、その日の出演者で唯一生演奏ができるミッシェル・ガン・エレファントが代役で歌うこととなった。周りのスタッフが慌てる中、タモリは「このまま出てくるな」と内心思っていた。このドタキャン騒動でt.A.T.u.の人気は凋落し、その後の東京ドーム公演の客席はガラガラ。プロデューサーのイワン・シャポヴァロフの話題作りが裏目に出た形となった。タモリはこれを評して「イワンのバカ」と振り返った。
2003年10月24日、『タモリ倶楽部』で「マイナーキャンペーンソング大賞」放送。大賞を受賞した特撮ソング風の「日本ブレイク工業社歌」が話題になり、その後CD化。
2004年10月16日、書籍『TOKYO坂道美学入門』発売。「TOKYO1週間」で連載されていた「TOKYO坂道美学デートNAVI入門」をまとめたもの。
2005年某日、梅津弥英子アナウンサーとフジテレビディレクター出口敬生の結婚披露宴に出席。酔っぱらっていたことに加え、偽善的な空気に我慢できなくなり、千野アナなどをタックルで襲撃した。
2006年1月3日、短編映画『やどさがし』公開。三鷹の森ジブリ美術館でのみ上映されている約12分の短編アニメーションで、タモリはすべての効果音や擬音を声で演じた。
2007年2月、鈴木良雄・伊藤潔・五野洋ら共に、ジャズレーベル「ONEレーベル」を設立。「ONE」は「一義」から取られたもの。5月16日に「ONEレーベル」から第1弾CDとして、鈴木良雄トリオの「For You」を発売。12月5日には、第2弾CDとして鈴木良雄率いるBASS TALKの『Love Letter』が発売された。
2007年4月25日、「中洲産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 カレー部例会」(電力館)開催。山下洋輔、糸井重里、みうらじゅん、リリー・フランキーが参加。タモリ式カレーをみんなで味わおうというイベント。
2007年6月5日、TOYOTAエコWEBマガジン「あしたのハーモニー」が創刊し、編集長を務めた。
2007年11月4日、『笑っていいとも!増刊号』で新宿区長・中山弘子が出演、『笑っていいとも!』が新宿スタジオアルタから25年間生放送を続け「新宿の街のイメージアップに多大な貢献をしている」と、タモリに感謝状を手渡す。
2007年11月26日、ライブ「中洲産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents 『はじめてのJAZZ2 ヒストリーもたのしみなりー!』」(昭和女子大学 人見記念講堂)開催。20数年ぶりに中州産業大学・タモリ教授のジャズ講座が復活。
2007年12月19日、『タモリ』『タモリ2』『ラジカル・ヒステリー・ツアー』が紙ジャケCDとして再発売。
2008年2月24日、『ANN』40周年記念番組『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』の中で『タモリのオールナイトニッポン』を放送。ゲストは木梨憲武・永作博美・井上陽水。
2008年8月2日、赤塚不二夫が肺炎のため死去。7日の告別式にタモリが自身の生涯で初めて弔辞を読み「私もあなたの数多くの作品のひとつです」と語った。この弔辞は9月刊行の『文藝春秋』(10月号)に全文が掲載された。
2008年某日、ヨットレース「タモリカップ」がヤマハマリーナ沼津にて開催。マリーナメンバーの高齢化を危惧し、若い世代をヨット界に集めようとしたのが動機。
2009年1月31日、テレビ朝日開局50周年記念50時間テレビ内『SmaSTATION!! Presents SMAPがんばりますっ!!』にて、50本の「全力坂」を挑戦する木村拓哉が「日本坂道学会副会長」のタモリに挨拶。そこでタモリはオススメの坂を紹介したり、『全力坂』のDVDを持っていることを明かす。
2009年7月13日~17日、人間ドックと白内障の手術を行うため検査入院。『笑っていいとも!』などレギュラー番組を休養。
2010年代
2010年4月9日、第2回伊丹十三賞受賞。「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」と評価された。
2011年1月8日、『笑っていいとも!』初代プロデューサー横澤彪が肺炎のため死去。タモリは「それまで夜の番組しか出せないと言われていた自分を、いきなり昼の真ん中に起用してもらい、大変お世話になった」と死を悼んだ。
2011年10月10日、『タモリ・中居の手ぶらでイイのに…!?~ドラマチック・リビングルーム~』放送。第49回ギャラクシー奨励賞を受賞。
2012年7月21日~22日、『FNS27時間テレビ笑っていいとも!真夏の超団結特大号!! 徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』放送。『いいとも』放送30周年を記念し、89年の第3回目以来の総合司会を務めた。タモリのキャラクターデザインを久保ミツロウが担当。
2013年5月、『タモリ倶楽部』が第50回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。
2013年10月22日、『笑っていいとも!』のエンディングゲストに笑福亭鶴瓶が乱入し、2014年3月末で番組が終了されることを発表。
2013年12月26日、第16回みうらじゅん賞受賞。
2014年3月21日、『笑っていいとも!』内企画「テレフォンショッキング」に現役首相として初めて安倍晋三が出演。新聞の首相動静欄に「タモリと会食」と載せたいタモリの要望により、一緒にイチゴを食べるが、翌日、新聞各紙は「会食」に触れず、朝日新聞は「試食」と表現した。
2014年3月24日、『SMAP×SMAP』内企画「ビストロSMAP」にゲスト出演。SMAPメンバーと乾杯する際、2009年に泥酔し、公然わいせつ事件を起こして以来、禁酒し続けてきた草彅に対して、タモリは「禁酒もういいよ、今日から!」という一声をかけ、禁酒を解禁させた。
2014年3月31日、『笑っていいとも!』が最終回を迎える。1982年10月4日から続いてきた全8054回の当番組は、『生放送バラエティー番組 単独司会最多記録』として、ギネス記録に認定された。
2014年9月、サントリー「プレミアムボス」宇宙人ジョーンズシリーズの新CMに出演。『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングを模したスタイルおよびスタジオセットで、イグアナのモノマネなどを披露した。CMのコピーは「この惑星のテレビはタモリがいないと寂しい」。
2014年10月15日、第62回菊池寛賞受賞。授賞理由は「独自の視点を持つ数多いテレビ番組の『顔』として、日本の笑いを革新した」ことが評価されたため。
2014年12月31日、『第65回NHK紅白歌合戦』に審査員として、総合司会を務めた第34回以来、31年ぶりに出演。
2015年2月8日、フジテレビ中村光宏、生野陽子両アナウンサーの結婚披露宴に出席。同じく出席し、犬猿の仲と噂された小田和正と握手を交わし、「歴史的な和解」と報じられた。
2016年、日本テレビ系列スペシャルドラマ『天才バカボン』の主題歌を担当。
2016年6月、一般社団法人めぐろ観光まちづくり協会の名誉会長に就任。
2016年12月19日、『SMAP×SMAP』内企画『ビストロSMAP』に最後のゲストとして出演。実食のコーナーでは、中居の提案とタモリの発声で、タモリとSMAPの6人皆で食事を楽しんだ。勝負の判定で、タモリは「最終回だから判定はしない」「どっちも美味しかった」「人生で判定なんかどうでもいいこと」として、判定なしとした。また、勝者へのプレゼントでは、SMAPメンバー5人分を用意し、星型のオブジェにSMAP×SMAPのロゴと、メンバーの名前、タモリの名前が入った小物を贈った。
2016年12月31日、『第67回NHK紅白歌合戦』に、マツコ・デラックスとゲスト出演。2人は「ふるさと審査員」を務める一般人の夫婦という設定で、曲の合間に計7回寸劇を披露。道に迷ったり、会場に入ろうとして、警備員に止められたりしながら、何とか会場のNHKホールに入るが、結局「ふるさと審査員」の座席にはたどり着けず、そのまま2人は帰宅する。
2017年6月10日、6月17日、『ブラタモリ』名古屋編が2週にまたがって放映。「名古屋イジリの元凶」とされたタモリが、名古屋に来るということで、「歴史的和解」と放映前から大いに話題となり、名古屋市とNHKはタッグを組み、市内各所で大々的にPR活動を行った。
2017年9月28日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の30周年記念番組内の企画において、2014年3月に終了した人気番組『笑っていいとも』を3年半ぶりに復活させた。セットも当時の仕様で完璧に再現し、テレフォンショッキングなどの企画を繰り広げた。
2018年7月19日に発売された週刊新潮2018年7月26日号において、脚本家中園ミホとの不倫密会が報道された。しかし、所属事務所の田辺エージェンシー社長は、この報道を否定。
2018年10月1日、福岡県うきは市出身の妻の縁で、うきは市の「ふるさと大使」に就任。任期は2020年6月末まで。
人物
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この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2011年9月)
愛称
芸名は、元々学生時代のあだ名であり、本名の森田を入れ替えたもの。多くの芸能人からは「タモリさん」「タモさん」と呼ばれる。また大橋巨泉、山下洋輔などからは「タモリ」、和田アキ子や小松政夫、愛川欽也などからは「タモちゃん」と呼ばれる。中居正広(元SMAP)からはたまに「森田さん」と呼ぶことがある。
風貌
オールバックの髪型、サングラスがトレードマークである。しかし、上京してデビューした頃は、普通のメガネに七三分けという真面目なサラリーマンそのものの風貌であり、中洲産業大学教授を演じるときのみ、ボサボサの髪型にしていた。ある番組に出演した際に、スタッフより「顔に特徴がない」との理由でアイパッチをつけさせられたり、1974年4月に始まった最初のテレビレギュラー番組『空飛ぶモンティ・パイソン』の収録時、放送作家の高平哲郎より「素顔では迫力がないから」との理由で自分のレイバンのサングラスをかけさせられた。この頃はサングラスとアイパッチを併用していた。1977年3月より放映された、自身初となるCM出演となるキヤノンのカメラのテレビCMでは、アイパッチ姿と髪型はオールバックで真ん中分けと、その後おなじみとなるスタイルが採用された。撮影終了後、そのまま帰宅し、翌日そのまま同じ髪型で仕事に行って以来、ずっと同じ髪型で通すこととなった。1990年頃より、レイバンのサングラスも真ん中分けも徐々に止めて、普通のサングラス、オールバックへとマイナーチェンジし、現在のスタイルへと移っていった。
家族・親族
妻は2歳年上の一般人で、彼女自身の個人事務所の社長を務めている。1981年に行われた所ジョージの仲人を務め、結婚披露宴に出席した以外は、表舞台にほとんど登場しない。親交のあるニッポン放送アナウンサーの上柳昌彦は「タモリの夫人ということで、いろいろ考えられるかもしれませんが、至って普通の人」と語り、「話さないのは奥様が至って普通で面白くないからでは?」と分析する。タモリ曰く「自宅に仕事とセックスは持ちこまない。仕事に家庭は持ちこまない」が信条とし、表舞台で妻の話はほとんどしない。妻は芸能界嫌い(このためタモリの仕事にも立ち入りせず、仕事で帰りが遅くなっても不満がらない)で口数は少なく、ブランド物にも無頓着だという。一方、朝5時半に起床し家事をしっかりこなす妻のお陰もあり、タモリは『いいとも!』に遅刻をしなかった。自身が多忙であるため、妻と一緒に居ることは少なかったが、2010年頃より週末に国内旅行を共に行うようになった。妻と世界一周旅行をすることが夢と語っている。なお、妻との間に子どもをもうけなかった理由について、「自分が子どもなので親父になる責任が持てなかった」と述べている。
祖父・父とも満州からの引き揚げ者で、共に南満州鉄道に所属し、祖父は火連寨駅や熊岳城駅の駅長を務め、父は満鉄の経理部に勤務した。日本に引き揚げ後は、最初は洋服の卸しをしたが、その後父は三光汽船に勤務した。母親は3度結婚し、子どもを6人もうけた。祖父母に預けられて育ったため、父親とはあまり面会の機会がなく、良い印象も持っていない。
実姉がいて、いいとも!を観覧に来たことがある。
著名な親族として、遠戚ながら伊佐山ひろ子(女優、作家)がいる。
エピソード
デビュー当初はビートたけしとともに「お前らはせいぜい3年だ」などと周囲から暴言を吐かれていた。
『いいとも!』終了により多くの友人たちから旅行などの誘いを受けているが、当分は夫婦の時間を大切にする意向を示している。これは、妻が両親の介護の必要性から、実家の福岡と東京を往復する生活を長年続け、彼女自身も高齢となったため2012年頃より体調を崩すことが多くなったことが影響しているという。
2014年3月17日放送分の『いいとも!』内「タモリ名言珍言の真意を本人に聞くSP」では、勝俣州和が「気取った料理を気取って食わせる料理人はバカ」という名言を紹介した際に、「いい料理人はまず居心地を大切にしてお客を感動させて帰す。店の主役は料理人じゃない。お客さん!」という真意を述べたものだと語った。
2014年7月27日放送の『FNS27時間テレビ』内で『いいとも!』の後継番組『バイキング』に対し、「リビングで通りすがりに観た位。意識的には、未だに観てないね。全く気にならない」と語った。
2008年より「タモリカップ」という自らの名前を冠したヨットレースを開催している。2008年から2012年にかけては自らのヨットがあるヤマハマリーナ沼津で、2013年は横浜・福岡の2ヶ所で開催(ただし横浜・福岡ともレースは荒天のため中止)、横浜で192艇・福岡で84艇ものエントリーを集め、国内最大級のヨットレースに成長している。2016年の9月20日の開催予定であった宮城県での大会が、同県内で同日、嵐が大規模なライブを開催予定しており、ファンが宮城県内と周辺の殆どの宿泊施設を押さえて軒並み満室にしてしまったため、100人に及ぶ大会参加者や関係者の宿泊施設が確保できなくなり、中止を余儀なくされたと報道された[注 5][注 6]。後に嵐のメンバーが直接謝罪した。
加齢臭がなく、むしろ「甘い匂いがする(自身談)」「ミルキーな匂いがする(リリー・フランキー談)」「赤ちゃんっぽい匂いがする(宮沢りえ談)」と言われる。
体毛が非常に薄く、「笑っていいとも!」などの番組でよくズボンの裾を捲って見せていた。
マンハッタン・トランスファーの日本ツアーの司会のオファーがあったと「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」のコーナーで明かしている。しかし、マネージメント側が「そんなの(スケジュールを)押さえられませんよ!」と断ったという。
大の鉄道マニアである。「タモリ倶楽部」では「タモリ鉄道倶楽部」を結成し、喜々として鉄道を楽しむ様子が見られる。
番組で着用しているスーツはオーダー品で、「Ferratio Bokkini(フェラチオ・ボッキーニ)」という如何わしい名前を付けている。「笑っていいとも!」でそれを明かした際、当時レギュラー出演していたナインティナインの矢部浩之に「ボッキーニはわかりますけどフェラチオて・・・」と呆れられている。
『笑っていいとも!』で千原ジュニアの後輩が美味しい店を地図に書いて教えて貰った際に、建物名ではなく「茶色の5階建て」「下にコンビニがある9階建てのビル」と書いてあり、「もしかしてタモリさんは風景や人を写真のように覚えているのか?」と思ったジュニアが「だから久々に会った人に『髪切った?』と聞くのは写真で頭に記憶しているからじゃないんですか?」と訊ねると、「ちょっとそういう(能力)がある」と認めていた。
音楽
ジャズをこよなく愛し、所有レコードも数多く、植草甚一の死後に、散逸を防ぐためにその膨大なレコードコレクションをすべて引き取ったことでも知られる。新宿ジャズスポット「J」を経営する株式会社ノースウエストエンタープライズの取締役を務め、また奏者としては、各種セッションへの参加は勿論、テレビの場でもトランペットを度々演奏している。他方、「意味性」のある音楽については苦手としており、自身は数多くの音楽番組の司会を長年務めているものの、ポップスなどのミュージシャンについての言及はほとんどない。例外として、小沢健二に「いいと思う歌詞は小沢くんだけ」と述べたり、桑田佳祐の楽曲を絶賛するなど、自身が気に入った曲に関しては感想を述べる事もある。
交友関係
恩人である赤塚不二夫の死
2008年8月2日、タモリの才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた漫画家・赤塚不二夫が逝去。死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた。
同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列。その告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです」との弔辞を読み上げた。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で読んでいたが、実際にはその紙は全くの「白紙」で、勧進帳のごとく、何も書いていなかった。
なお、この弔辞は葬儀委員長であり、タモリ、赤塚の共通の友人でもある藤子不二雄Aから直に依頼を受けた。また、横澤彪によると、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜で会ったおり、横澤が尋ねると、この事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやることにしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は『勧進帳』、および『安宅』の項をそれぞれ参照)。
プロデューサー・横澤彪
2011年1月8日、『いいとも!』初代プロデューサーを務めていた横澤が肺炎のために亡くなった。「夜の番組しか出演出来ないと言われていた私をいきなり昼の真ん中に起用してくれました。私自身は昼も夜も意識したことはありませんでしたが、私で大丈夫なのかと不安でした。『笑っていいとも!』は今秋30周年を迎えます。大変お世話になりました」とコメントを寄せ、恩人の死を悼んだ。葬式や通夜には参列しなかったが、1月12日に横澤の自宅で対面した。
故人は「BIG3」を人気者へと押し上げた一人でもあった。
黒柳徹子
『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』のテレビ初出演時にラブコールを送り、知名度を上げるきっかけを作った。『徹子の部屋』には、1977年に8月11日に初出演、39回出演し、1978年から2013年まで36年もの間、毎年年末最後の放送に出演するのが恒例となっていた。
井上陽水
同郷福岡の親友。『いいとも!』終了前に、オリジナル曲「タモリに贈る詩」を贈った。
とんねるずの石橋貴明と共にタモリの家でお酒を飲んだ際に、タモリの振舞った「ごぼ天うどん」を吐いてしまったエピソードが度々披露されている。
とんねるず
デビュー以前から崇拝しており、芸能界入りを決めた契機は、素人時代に出演したお笑いスター誕生(日本テレビ)で、他の審査員には当時革新的であったネタは受け入れられなかったが、審査員であった赤塚とともに、「なんかわけわかんないけど、お前等は面白い」と絶賛されたことだったと、事あるごとに語っている。
また、タモリのオールナイトニッポンを見学に行った際は少し話し、なんかおごったりしてくれるだろうと考えていたが、「じゃっ、お疲れ!」と言って帰ってしまったと、後年冗談めかし語っている。
その後、石橋貴明、木梨憲武共に、交友は続き、『いいとも!』にも個人で出演したり、野猿や矢島美容室などのグループで出演することはあったが、2人での出演は2014年の『いいとも!』放送8000回の際に、29年ぶりに出演を果たし、いいとも終了が後2ヶ月まで迫っている中で、直接レギュラー化を懇願し、レギュラー化が決まった。また、テレフォンショッキング史上、最長出演であった。これにより『いいとも!グランドフィナーレ』にも『伝説のレギュラー陣』として出演し、明石家さんま、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、ナインティナインと共演を果たした。特にダウンタウンとは、20年以上ぶりの共演であった。
草彅剛(元SMAP)
別荘や家にたびたび招待されており、周囲の第三者によると「まるで親子のように仲が良い」とのこと。
タモリについての著作がある戸部田誠は『笑っていいとも!増刊号』を見て草彅を称賛したあと、「やっぱ、タモリさんの正当な後継者って草彅剛だなぁって改めて思う」と書き記した。
福岡市長高島宗一郎(元九州朝日放送アナウンサー)
高島の父親とは西高宮小学校、高宮中学校で同級生で、『笑っていいとも』において福岡市長とのエピソードを披露した三谷幸喜に、高島の父との縁を披露し、三谷と観客を驚かせた。
坂崎幸之助(THE ALFEE)
メンバー中、最も親交が深く、「下落合焼とりムービー」で共に出演した他、所ジョージとタモリが二人でツアーを行った際にバックバンドに参加している。
明石家さんま
さんまが大竹しのぶと結婚中に、お正月に餅つき大会に参加したが、髪を下ろしてサングラスも掛けずに参加。無言でこたつに入っていたため、大竹しのぶが「あの人誰?」とさんまにたずね、さらに息子の二千翔も「ねー タモリまだぁ?」とさんま夫婦に聞いたところ、タモリが「もうすぐ来るよ…」と言っていた。全く話さずに餅だけ持って帰り、さんまは呆れ大竹しのぶは憤慨していた。タモリは大竹しのぶの母親を大変気に入っており、母親だけがタモリに気付き、チラッと見ただけで「ヘッヘッヘ」と笑いながら去ったのが面白かったという。ただタモリ本人曰く一人で盛り上がっているさんまの輪に入ることに抵抗感を覚えたと後に語っていた。また自宅にさんまを呼び、手料理を振る舞ったが、さんまを1人居間に残して食べさせたため、さんまが「ずっと掛け軸ばっか見てた」と怒っていた。
仕事
基本的に弟子は取らない方針で、希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るという。ただし付き人や運転手は存在する(テレフォンショッキング等のフリートーク時には「うちの若いもん」「うちの若い奴」などと表現している)。1980年代後半には岡村、90年代後半には金子という付き人・運転手がいて、度々『いいとも!』などに出演させていた。その後、イワイガワのジョニ男も運転手を務めていた。なお、多くの芸能・有名人がメルセデスベンツやロールスロイスなどの高級車を移動に使用する中で、いち早くワンボックスカーやミニバンを移動車として使用するなど、先進的な一面も見られる
2016年8月、ごく身内のみが集まった71回目の誕生日会で引退を示唆する発言を行ったという。以前から親しい関係者に「古希になったら芸能界を引退する」と語っていたとも言われる。
『いいとも!』の司会者時代だけでも、年5億円(1回の放送で200万円)程度、他番組と通算で7億円程度のギャラを得たとされる。2003年以降の推定年俸から考えると『いいとも!』開始から2013年までに135億円程度を稼いだと言われる。一方、自身は収入については無頓着であり、放送局とのギャラ交渉にも意見をすることはほぼない。2014年のいいとも終了後は、金額こそ減っているが、特に生活に困らないレベルの収入はあるとされる。
2015年にはNHKから『第66回NHK紅白歌合戦』の総合司会のオファーを受けたが、スケジュールの都合などを理由に辞退したと報じられている。
影響
1970年後半頃より、テレビやラジオで名古屋弁や名古屋人の行動パターンを揶揄するネタを展開し、名古屋人の有する「見栄っ張り」「倹約家」などの気風をダサいものと見做し、笑いの対象としていた。中でも、自身の番組内で「名古屋ではエビフライのことを『エビフリャー』と言う」と発言し続けた結果、「エビフリャー」という言葉が全国的に定着し、それまで名古屋において、特に名物ではなかったエビフライが、実際に名古屋名物として定着した。これら一連の流れから、名古屋において、タモリは「いじられる名古屋」のイメージを創出した因縁の人物となった。名古屋市長の河村たかしは「(タモリは)一般的に言うと宿敵のイメージ。名古屋の伝統的な文化を崩壊させるようなイメージをつくられた方」と評した。(詳細はエビフリャーを参照) 2017年5月、NHK『ブラタモリ』において名古屋編の放送が決定し、タモリが名古屋に来ること受け、「歴史的和解」「冷戦の終結」と評された。番組は名古屋市が全面的に協力し、地元紙『中日新聞』も、カラーページで大きく伝えた。名古屋市内では放送を前に、名古屋城に向かう市営の「なごや観光ルートバス」が『ブラタモリ』バージョンにラッピングされ、繁華街・栄に建つテレビ塔の夜間のライティングにも、タモリのアニメが登場し、番組放映を歓迎した。
1980年代後半頃、『笑っていいとも!』内企画「テレフォンショッキング」にミュージシャンの織田哲郎が出演した際、織田が学生時代に卓球をやっていたことを明かすと、タモリが「卓球は根暗」と発言。当時、卓球人口が減っている時期でもあったが、タモリの発言の影響は少なくなく、翌年の中学高校の卓球部員が激減するなど、卓球人口減少に拍車をかけた。そこで、日本卓球協会は、根暗と言われないように、カラーボールの開発や、様々な色のユニホームの使用許可、テレビに映えるように卓球台をそれまでの緑色から青色に変えるなど、イメージアップに取り組んだ。 2016年9月25日放送の『林先生が驚く初耳学!』において、卓球選手の水谷隼は、この一連の流れから「卓球台の色が濃い緑から青に変わったのはタモリの影響」と述べ、後に、タモリが「(卓球を)根暗といって悪かった」と、日本卓球協会に対して1000万円の寄付をしていたことを明かした。
新語専門のフリーライターもりひろしは、タモリが、80年代前半に「ネクラ・ネアカ」の言葉を番組内で好んで使ったことから、世間に普及したと考察した。また、1970年代に関東の若者が使っていた「ダサい」という言葉も、タモリが埼玉県民を嘲笑する意味で「ダ埼玉」(ださいたま)という造語を考案し、番組内で頻繁に使ったことから、世間に普及したと考察した。
1988年、ユンケル黄帝液のテレビCM内でタモリが発した言葉「ユンケルンバ ガンバルンバ」が、その年の新語・流行語大賞において、「特別賞部門・人語一体傑作賞」を受賞した。
32年間に渡って出演し続けた『笑っていいとも!』が2014年3月末をもって終了し、平日の昼の時間帯にタモリを見られなくなったため、喪失感や虚脱感を示す人々が現れた。この現象を受け「タモリ・ロス・症候群」を略して「タモロス」という造語が産まれ、2014年の新語・流行語大賞の候補50語に「タモロス」がノミネートされた。また、2014年9月、サントリー「プレミアムボス」のCMでタモリが出演し、この「タモロス」を題材として取り上げた。
入浴の際「湯船に10分以上つかれば、体の汚れは80%落ちる。石鹸やボディソープを使わない」と公言している。人間が本来持つ皮脂をもって、肌を保湿するこの方法は「タモリ式入浴法」として広く知られ、福山雅治や妻夫木聡、ローラなど多くの芸能人も実践している。
ハリウッドザコシショウは、持ちネタである「誇張モノマネ」において、当初、白ブリーフ(後に黒パンツに変更)を着用していたが、これはタモリがイグアナのモノマネなどの形態模写をする時に白ブリーフを着用していたことに対するオマージュだと明かした。
受賞歴
1981年 – 第10回「ベストドレッサー賞」スポーツ・芸能部門受賞
1982年 – 第19回「ゴールデン・アロー賞」芸能賞受賞
1984年 – 第21回「ゴールデン・アロー賞」放送賞受賞
1984年 – 第12回「日本放送演芸大賞」受賞
1986年 – 「流行語大賞」受賞
1986年 – 「ゆうもあ大賞」受賞
2003年 – 「ギネス・ワールド・レコーズ」(2003年度版『笑っていいとも!』生放送単独司会最高記録受賞)
2010年 – 第2回「伊丹十三賞」受賞
2013年 – 第16回「みうらじゅん賞」受賞
2014年 – 第14回「ビートたけしのエンターテインメント賞」特別賞受賞
2014年 – 「ギネス・ワールド・レコーズ」(2014年度版『笑っていいとも!』生放送単独司会最高記録更新)
2014年 – 第62回「菊池寛賞」受賞
2015年 – 2015 55th ACC CM FESTIVAL・クラフト賞 フィルム部門 演技賞 (サントリー「BOSS」のCMの演技に対して)
2017年 – 第68回「日本放送協会放送文化賞」
芸
密室芸
居候時代に培った芸は「密室芸」と呼ばれる。命名者は奥成達。近年も徹子の部屋などに出演した際に披露する。
上京当初、「北京放送」や形態模写くらいしか持ちネタがなかったが、臨席した人物からの無茶振りをそつなくこなし、それを自らの芸として確立させていった。前述の「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」は「宇宙飛行士→大河内伝次郎の宇宙飛行士→ターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士…」と客の指示により、状況が変わっていく即興芸。
また、団しん也や小松政夫らも持ちネタとしている、「マジックショーの電動ノコギリで切られる有名人」は、おもしろグループでの宴会芸が発端となって、永六輔や野坂昭如などが切られたときのリアクションをそれぞれやったらウケたので、とくに専売特許と決めていないと、2人は語っている。
ただし、放送できない部類のパロディ・ブラックユーモアを含むものがかなり多く、テレビなどで密室芸と称して行う場合は放送して差し障りの無い程度に表現を緩和あるいは差し替えている。持ちネタの一つであった昭和天皇の物真似については、1985年5月14日、作家の筒井康隆のパーティーで披露したところ、それが翌週の「週刊読書人」に掲載され、右翼から脅迫を受けることとなり、最終的には所属事務所の田邊昭知社長が半監禁状態で右翼から抗議される事態に至った。この後、6月26日に筒井が製作する映画『スタア』に昭和天皇役でオファーがかかったが、タモリ側の希望でアドルフ・ヒトラー役に変更になり、事件以降、昭和天皇ネタは封印されている。
中洲産業大学
架空の大学『中洲産業大学』の「タモリ教授」または「森田一義助教授」を名乗り、難解なことをもっともらしく解説しているように装って、まるっきりでたらめな講義を行うというもの。(詳細は中洲産業大学を参照)。
ハナモゲラ語
「初めて日本語を聞いた外国人の耳に聞こえる日本語の物真似」として、声の高低やフレーズの区切り目は日本語に併せつつも、言葉の構文的要素を一切捨て、デタラメな言葉を勝手に作って喋るというもの。(詳細はハナモゲラを参照)
四ヶ国語麻雀
日本語をベースとした4つのインチキ外国語を使い、1人で各国の人間になりきって、麻雀バトルを繰り広げるというもの。インチキ外国語には、中国語、ハングルの韓国バージョン、北朝鮮バージョン、英語、ロシア語、ドイツ語、フランス語などがあり、日本語を喋る際は、寺山修二などのモノマネを行う。元々は、毛沢東・マッカーサー・ヒトラー・昭和天皇の麻雀対局であり、最後に昭和天皇が「結局○○人が悪い!」と民族差別的な発言をして終わるものであった。
思想模写
寺山修司のものまねは、喋り方や身振りの模写のみならず、話す内容自体は自身で考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前、喋る内容や論理の組み立て方が自分と同じと語っていた)で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後のものまねに多大な影響を与えた。こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして野坂昭如や竹村健一、田中角栄、大橋巨泉、永六輔、横井庄一、浦辺粂子、久米明、安藤忠雄など他多数存在する。筒井康隆は「奇人タモリの演じる文化人たちの物真似が受けるのは、何を言っているのかわからないことは本物と全く同じでありながら、何よりも本物より面白いことだけははっきりしているからである」と評する。
司会
司会者としては、多趣味を生かした話のフリと、相手の話をきちんと理解しきちんと切り返すという技術に確かなものがある。ただし、バラエティ番組の司会、とくに『いいとも!』においては、要所を押さえながらも自由すぎる行動や発言を織り交ぜるのを特徴としている。
またゲストに失礼なリアクションをした若い一般観衆に対して、場の空気を壊さずに注意したりたしなめたりする能力は他の追従を許さず、「これ程上手に叱る司会者はいない」と横澤彪に評された。
音楽芸
「誰でも弾けるチック・コリア」「誰でも弾けるハービー・ハンコック」など、誰でも弾けるシリーズや、中国人の弾き語りなど、ピアノの鍵盤を使った芸を数多く持つ。また、ラップ(得意の外国語風もおこなう)やヒューマンビートボックス、口三味線なども度々披露する芸である(いいともなどでラッパーやビートボクサー、楽器演奏のできるゲストであった場合の即興コラボは定番であった)。
安産祈願
元々『いいとも!』の「テレフォンショッキング」で紹介されたテレフォンゲストへのメッセージのメモをとるふりをし、実は放送禁止の女性器を簡素化した図形を描き、テレフォンゲストに見せ、その反応を楽しんでいた。次第に、その図柄にちなみ安産祈願と称しそのメモをテレフォンゲストが持ち帰るようになった。
出演番組
冠番組
『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)の放送が始まった1982年頃から、バラエティ番組のメイン司会業の仕事が増え、自身の冠番組が続々と誕生していく。『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)、『タモリ倶楽部』・『ミュージックステーション』(共にテレビ朝日系列)の3番組を軸として、加えて、ゴールデンタイム・プライムタイム、ラジオ番組のレギュラー番組を週に7 – 8本はこなす時期が1980年から2000年代に掛けてあった。
代表的な番組として『今夜は最高!』(日本テレビ系列)、『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(毎日放送制作・TBS系列)、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)等が開始されていった。また、博識が評価され『今夜は最高!』(日本テレビ系列)の「オペラ昭和任侠伝」が、同年の民間放送連盟賞のテレビ娯楽番組部門最優秀賞を受賞した。
NHK総合テレビ = 『ブラタモリ』
日本テレビ = 『今夜は最高!』
テレビ東京 = 『タモリの音楽は世界だ!』
TBS = 『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(毎日放送制作)
フジテレビ = 『タモリのボキャブラ天国』『世にも奇妙な物語』『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』『タモリのジャポニカロゴス』
ニッポン放送 = 『タモリのオールナイトニッポン』『タモリの週刊ダイナマイク』『ブリタモリ大百科事典』 他多数
上記は、1980年から2000年代当時のレギュラー番組であるが、このうち日本テレビ、TBS、フジテレビ全てのレギュラー番組の視聴率が10 – 20%台をマークしていた。その他、テレビ番組以外にも歌手としてのCD・レコードリリースとライブ活動なども行っていた。この頃より、ビートたけし・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
ドラマ出演
主にバラエティ番組で活躍しているが、テレビドラマにも出演してきた。テレビドラマ初出演作品は、ドラマ人間模様『詐欺師』(NHK)であった。このドラマは連続ドラマであり、大谷直子とのベッドシーンやキスシーンもあった。なお、このドラマではトレードマークのサングラスをかけずに出演していた。
他には、月曜スター劇場『なぜか、ドラキュラ』『今夜は営業中!』(日本テレビ系列)、『代議士秘書の犯罪』『不連続爆破事件』『ミセスとぼくとセニョールと!』『自主退学』(TBS系列)などで主演を果たしている。
2000年代以降でもストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』(フジテレビ系列)にエキストラで出演したり、2004年に『X’smap〜虎とライオンと五人の男〜』(フジテレビ系列)にてデビュー時の眼帯をつけた姿で登場、2007年に『和田アキ子殺人事件』(TBS系列)に本人(森田一義)役で出演、2012年に『ATARU』最終話(TBS系列)に宝飾店店員役でゲスト出演している。また、『HERO』劇場版では、悪徳政治家を演じた。
情報・報道番組出演
バラエティ番組以外に、情報・報道番組に登場することもある。
『タモリのセンキョでいいとも! 〜参院選FNN開票速報〜』(フジテレビ系列)
1983年6月26日に実施された第13回参議院議員通常選挙では、選挙メインキャスターとなり、フジテレビ系列・FNN系列にて『いいとも!』をアレンジとした『センキョでいいとも!』が放送された。
『FNNニュース工場』『FNN DATE LINE』及び『FNNスーパータイム』(何れもフジテレビ系列)
1988年と1989年の全2回、タモリが司会を務めたFNSの日『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』のニュースパートとして放送された『タモリのニュースファクトリー』や『DATE LINEデラックス』や『スーパータイムデラックス』を進行アナウンサーの露木茂と担当(その他では、『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)のトークコーナー「テレフォンショッキング」でも何度も共演をしていた)。
『FNNスーパーニュース』(フジテレビ系列)
全3回程度出演し、メインキャスターの安藤優子と共演(その他では露木同様、『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)のトークコーナー「テレフォンショッキング」でも共演)。『タモリ&安藤優子のSuperスーパーニュースSpecial』にも出演している。
ゲスト出演
徹子の部屋(テレビ朝日系列 / 年内最後のゲストとして2013年まで必ず出演していた)37年
現在の出演番組
レギュラー番組
タモリ倶楽部(テレビ朝日系列)
ミュージックステーション(テレビ朝日系列)
ブラタモリ(NHK総合)
単発・不定期番組
世にも奇妙な物語(フジテレビ系列 / 番組改編時期の春・秋に放送、ストーリーテラー役として出演)
ミュージックステーションスペシャル スーパーライブ(テレビ朝日系列 / 年末年始特番)
ミュージックステーションスペシャル ウルトラFES(テレビ朝日系列 / 毎年9月下旬大型特番)
タモリのオールナイトニッポンGOLD Song&Bossスペシャル(ニッポン放送 / 年末年始特番)
NHKスペシャル 人体 神秘の巨大ネットワーク(NHK総合 / 2017年9月 – 2018年3月まで全8回放送)
過去の出演番組
NHK
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日本テレビ系列
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テレビ朝日系列
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TBS系列
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テレビ東京系列
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フジテレビ系列
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BS系列
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ラジオ
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CM
サントリー BOSS 「宇宙人ジョーンズの地球調査シリーズ」(2014年 – )
ミクシィ モンスターストライク(2018年)
過去
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映像作品
映画出演作品
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VHS・DVD
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音楽作品
アルバム
NO. ジャケットタイトル 形態・発売日 品番・発売元 備考
1st タモリ LP:1977年03月20日 ETP-72227(東芝EMI/Alfa) 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇の物真似であった。発売になったのは修正版。2007年発売版では「CMブラジャー・ミシン」(ブラザー工業風のラジオCM風パロディ)のセリフの一部がカットされて収録されている(乳がん患者への配慮と思われる)。
LP:1980年(再発) ALR-4013(アルファ)
CD:1995年06月16日(初CD化) ALCA-9159(アルファ)
CD:2007年12月20日(CD再発)
※初回のみ紙ジャケ仕様
MHCL-1238(Sony Music Direct)
2nd タモリ2 LP:1978年12月20日 ETP-80060(東芝EMI/Alfa) 講師として中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。
LP:1980年(再発) ALR-4007(アルファ)
CD:1995年06月16日(初CD化) ALCA-9160(アルファ)
CD:2007年12月20日(CD再発)
※初回のみ紙ジャケ仕様
MHCL-1239(Sony Music Direct)
3rd タモリ3
– 戦後日本歌謡史 –
LP:1981年9月10日 TAMORI-3(アルファ) 実際には『タモリ2』発売以前より録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずであった。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる。未CD化。
4th ラジカル・ヒステリー・ツアー LP:1981年05月01日 27AH-1237(CBS/SONY) サザンオールスターズの桑田佳祐、THE SQUARE(現:T-SQUARE)の安藤まさひろ(本名の安藤正容名義で)と当時メンバーであった久米大作が楽曲を提供。安藤、久米の提供曲はTHE SQUAREがバック演奏を担当している。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。
中野サンプラザなどで全国ツアーを行った。
CD:2007年12月20日(初CD化)
※初回のみ紙ジャケ仕様
MHCL-1240(Sony Music Direct)
5th HOW ABOUT THIS LP:1986年09月21日 VIH-28272(ビクター) 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。
CD:1986年09月21日 VDR-1276(ビクター)
シングル
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その他アルバム
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その他
「タモリさんが作った歌」
宝塚歌劇団時代の大地真央のために作詞・作曲を手掛けた。編曲は小笠原寛。CD『この愛よ永遠に 〜TAKARAZUKA FOREVER〜』に収録されている。
「ラーガ・バガヴァット」
赤塚不二夫の生涯を追ったドキュメンタリー映画『マンガをはみだした男 赤塚不二夫』(2016年公開)の主題曲。作詞とボーカルを担う。
書籍・ゲーム
書籍
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共著
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関連書籍
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ゲーム
「森田一義アワー 笑っていいとも!ボードゲーム」(1985年)
「森田一義アワー 笑っていいとも!タモリンピック」 スーパーファミコン専用ゲームソフト(1994年、アテナ)
「タモリのSuperボキャブラ天国 CARD GAME ヤングアダルト向カルタ的 豪華美麗カードゲーム」
(発売元:タカラ、販売元:セントラルホビー)
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